南海放送50年史
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部員は多忙であったが、南海放送創立15周年記念事業となり、社としても後援を惜しまなかった。1973(昭和48)年には南海放送創立20周年記念として第3回公演モリエール作、喜劇「タルチュフ」(全5幕)を松山市民会館中ホールで上演した。この公演が南海放送劇団の最後の公演となった。劇団草創期から活躍した梅原節子は「ラジオドラマだけでなく、ディスクジョッキーのようなことも行い、自分達の表現活動が脚光を浴びる日々であった」と語っている。ラジオドラマ、演劇の蓄積はむだにはならなかった。それはのちに、わが社初めてのテレビドラマ『わが兄はホトトギス』(演出・森巌)の制作に際して見事に生かされるのである。録音構成『塀のない刑務所』(1968(昭和43)年、取材構成・武田孟大)は、越智郡大西町の来島船渠(現新来島どっく株式会社)で就労している松山刑務所の受刑者の問題をテーマにとりあげた。比較的刑の軽い受刑者の更生と社会復帰のために、刑務所と一般社会との中間に位置する施設として、船舶建造の作業が選ばれた。来島船渠社長坪内寿夫は反対する住民に対して自らのシベリア捕虜体験の苦労話をまじえながら説得し、受刑者の受け入れを実現させた。この番組は民放連盟賞ラジオ社会教養部門の銅賞を受賞した。『瀬戸内海時代』は東予新産業都市指定以来、新たな開発拠点となった瀬戸内海のありかたを考えるために、1965年の新春特別番組として制作された。5月からは木曜夜11時からのレギュラーシリーズ(30分)となった。武田孟大ディレクターは瀬戸内海沿岸地域に住む人びとのふだんの暮らしに視点をおき、「水」、「農漁業」、「交通」、「医療」など身近なテーマをとりあげ、キャンペーン番組のさきがけとなった。『マイクと歩けば』(水曜日夜11時)も報道色の強い番組とな初期のキャンペーン75第2節 放送システムの近代化

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