(昭和40)年5月、JRNとして発足、加盟社は30社に達した。ラインネットは録音テープまわしでは編成できなかった多様な番組編成をもたらした。スポーツ実況中継などの音質を向上させたばかりでなく、番組モニター作業を軽減し、自社制作番組の充実に余力をあてることもできるようになった。JRN発足の翌日、文化放送とニッポン放送によるNRN(ナショナル・ラジオ・ネットワーク)もスタートした。わが社は1979(昭和54)年3月、NRNにも加盟し、番組のクロスネットが実現した。ラジオ再生の道が模索される中で、従来の自社制作番組のありかたに見直しが求められ、地方における文芸活動の一角を担ったラジオドラマ枠『中四国リレー劇場』が終了した。『中四国リレー劇場』は1961(昭和36)年6月、山陽放送、中国放送、南海放送、高知放送の4社が30分の単発ドラマをそれぞれの局で制作し、ローテーションを組んで放送していた。放送時間は土曜日の午後11時15分から、のちには日曜日午後5時15分からに移行した。わが社は平岡英、森巌、多田達生が交代で演出を担当している。最終回は1966(昭和41)年5月27日、午後7時から放送された天野祐吉作「遠くの親戚」である。翌年元日、新春特別番組として放送された天野祐吉作「ひつじの時代」が南海放送劇団としてのラジオドラマ最後の作品となった。ラジオで表現の場をなくした南海放送劇団員は活躍の場を舞台公演に求めた。1967(昭和42)年5月、松山市民会館中ホールで上演された南海放送劇団の第1回公演、ゴーゴリ作「検察官」(演出・平岡英)は成功だった。1968年12月には、南海放送劇団第2回公演ドーデー作「アルルの女」(演出・森巌)が宇和島大宮ホール、松山市民会館中ホールで上演され、盛況だった。この年の夏にはテレビ自社制作ワイド番組『なんかいサンデー8』がスタートし、制作ラジオドラマの終焉74第2章 大いなる飛躍へ
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