で山中義貞社長が代表取締役会長に、また代表取締役社長には平田陽一郎が就任した。平田は1953年に南海放送を創立後、愛媛新聞社社長と南海放送社長を兼務したが、1957(昭和32)年、テレビ事業免許の申請に際してマスメディア集中排除原則にのっとり、代表権を持たない取締役会長となった。さらに1962(昭和37)年末には、県内保守陣営の分裂にともなう知事選挙に立候補のため会長を辞任した。9年振りの社長復帰である。ふたたびの就任挨拶に立った平田社長は、「南海放送の飛躍的な発展は創立当時のことを思うと感慨にたえない。社員の待遇も職場環境もそろっているが、なお“楽しい職場作り”を皆で心がけてほしい」と、温顔に笑みをたたえて従業員に呼びかけた。この年の後半、景気は東京オリンピック後の不況から脱して上昇過程にあった。「いざなぎ景気」の到来である。人びとがカラーテレビ、カー、クーラーのいわゆる3Cを競って買い求める時代が到来した。「うちのテレビにゃ色がない」(三洋電機)のテレビCMが白黒テレビからカラーテレビへの橋渡し役になった。わが社第27期(1966年6月1日~1966年11月30日)の6か月間の営業収入も前期比119.4%、経常利益は前期比163.2%と急伸している。一方、UHF波による新しいテレビ地方局への免許の動きが具体化しつつあった。2局競合時代にそなえて放送設備の自動化をはじめとする経営合理化、難視聴地域解消のためのテレビ中継局のさらなる増設などが課題となって浮上した。平田社長の復帰にともない山中会長、平田社長、門田副社長が代表権を持って経営にあたることになり、南海放送創立以来の河上績(専務取締役)、樋口庄八(常務取締役)が退任した。69第1節 放送会館と経営近代化第3代社長 平田陽一郎
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