南海放送50年史
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この年、1966年は日本の空で航空機事故が続発した。2月4日、千歳空港発羽田行き全日空60便ボーイング727型機が東京湾に墜落、133名全員が犠牲になった。3月4日には香港発羽田経由バンクーバー行きカナダ太平洋航空402便DC-8型機が羽田空港に着陸しようとして滑走路先端の防波堤に激突、乗員乗客72名中64名が死亡した。この惨事が起きた翌5日、羽田空港を飛び立ちロンドンに向かう英国海外航空911便ボーイング707型機が富士山上空で空中分解し、124名全員が犠牲になった。また、8月26日には日本航空の貨物専用機コンベア880型機が羽田空港で乗員の訓練中、離陸直後に墜落炎上し乗員と運輸省航空局の職員5名が殉職した。そして11月13日、全日空YS-11の松山空港沖墜落事故である。YS-11は1962年、三菱重工が戦後初めて製造した双発プロペラ、期待の新鋭旅客機であった。YS-11行方不明の情報は午後8時40分過ぎ、共同通信から報道部に伝えられた。報道デスクの松田貢は夜勤カメラマンの窪田隆純を空港に急がせる一方、報道部員の緊急呼び出しを行った。美術部員が帰宅したばかりで、ニュース速報の文字をテレビマスター勤務の編成部進行業務担当部員の弘岡寧彦が手書きし、オンエアした。午後9時半過ぎには報道、制作、アナウンス部員らが集まりはじめた。制作局のフロアは騒然となった。池内央報道部長の指示で報道部員がカメラ、無線機を手にして空港、松山海上保安部に向かう。伊予鉄航空事務所に直行した森田忠司から乗員乗客50名の名簿を送稿してきた。午後10時15分頃、松山沖2キロの海上で機体の破片が浮いているのが発見され、遭難は確実となった。宇和島医師会の医師たち、全銀連(労働組合)の集会に参加した伊予銀行行員の名が乗客名簿で確認され、顔写真集めに営業部員らが手分けして走った。新婚旅行に道後温泉をえらんだカップル12組が悲運に遭遇していた。制作、技術部員らはテレビ中継車の65第1節 放送会館と経営近代化引き揚げられた機体の一部引き揚げられた機体の一部

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