日の昼過ぎ、松山市平和通りで暴力団による撃合い事件が発生した。広域暴力団の系列化を背景にしたもので、組員は暴力団事務所をとりまいた警察官や市民にまで発砲した。非番の記者たちを呼び出し、ニュースを全国に逆ネットしたほか、1週間に3本のテレビ特別番組を制作、放送した。この時までローカルニュースは昼、夕方に5分枠の2本を編成していたが、4分程度の内容のため表面的な事象をこまぎれに伝えて終わることが多く、テーマの掘り下げも浅かった。1965(昭和40)年11月から夕方6時の『愛媛新聞ニュース』を6時35分からに繰り下げ、10分に拡大したのを手はじめに、1966(昭和41)年10月には昼前の『南海放送ニュース』を10分に拡大、翌年4月からは夜11時からの『きょうの出来事』、『スポーツニュース』に続く『南海放送ニュース』を10分間に延長した。また、同年12月には、昼から夕方までのブランクを埋めるために、午後4時から5分間のニュースが新設された。これらの報道強化は、放送会館移転後の新しい組織体制の下で着々と進められたが、さらに1966年11月13日夜の全日空YS-11松山沖墜落事故という悲惨な試練に直面することになった。1966(昭和41)年11月13日、伊丹空港午後5時45分発予定の全日空松山行533便は定員オーバーのため機種をフレンドシップからYS-11に急遽変更し、1時間半余り遅れて伊丹空港を飛び立った。その夜、松山は風雨注意報下にあり小雨が降っていた。午後8時半、松山空港への着陸態勢に入ったYS-11オリンピア号は滑走路中央付近に飛沫をあげて車輪を接地したものの、すぐさま上昇に転じ、副操縦士の「ゴーアラウンド」の声を残したまま暗闇の伊予灘に姿を消した。同機には乗務員5名、愛媛県人17人をふくむ乗客45人が搭乗していた。全日空YS-11松山沖に墜落64第2章 大いなる飛躍へ当時の松山空港
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