南海放送50年史
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いたこともあって増資には条件が悪く、25.6%もの失権株がでた。このため失権株分は公募に切り替え、財務担当の河上常務を中心に役員が奔走して、予定通り12月1日に払い込みが完了した。この倍額増資で資本金は3億6,000万円となり、放送会館の建設構想は急速に具体化した。山中社長を委員長とする放送会館建設委員会が発足、総務局企画部長に技術局技術部長大西越丙を建設工事全般の責任者として起用、カラー放送への対応ほか新しい放送システムの導入、運用中の設備の移転に至るまで、細部に目配りする社内体制をととのえた。設計案は、日建設計工務(現日建設計)から提示された4つの平面図のうち、本館部分とスタジオ棟を分けたプランが採用され、施行は清水建設と決定した。南海放送会館の建設は、創立10周年を期してラジオ・テレビの放送活動の拠点を一つにまとめるだけでなく、雑然とした労働環境の改善を進め、番組制作・営業活動の拡大にみあう近代的な経営体質への飛躍という重要な意味を持つものであった。この年末、ふたたび役員体制が変わった。愛媛県議会自民党の分裂により、保革5派連合から擁立された平田陽一郎が知事選挙に立候補するため、愛媛新聞社社長と南海放送会長をともに辞任した。会社創立事務を担当し、総務局長、東京支社長などを歴任した安井隆も取締役を退任した。第19期(1962年6月1日~同年11月30日)の営業収入はテレビが大きく伸びて前期比111.6%と好調であった。12月28日、山中義貞社長、門田圭三副社長、河上績常務が定時株主総会後の取締役会で代表取締役に就任し、南海放送の新時代へ向けて、三人体制でのぞむことになった。1963(昭和38)年3月5日、道後樋又の建設工事現場におい細心の移転作業55第1節 放送会館と経営近代化放送会館模型

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