南海放送50年史
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第2章 大いなる飛躍へ城山のテレビ局舎はコンパクトなかたちにできていたが、すぐに手狭になった。テレビの放送・技術部門が分離していることは効率の上でもロスが多く、不便であった。本社でも屋上に急造の小屋をつくってラジオ制作課が入り、東側に隣接する日本郵便逓送の土地建物を買収して報道課が仕事をしていたが、テレビニュースを放送する夕方になると、フィルムと原稿、レコードを持ってテレビ局舎にかけ上がる始末だった。このため、1960(昭和35)年6月、定例取締役会は新しく放送会館建設の方針を決定し、松山市榎町(現三番町5丁目)に土地を取得した。しかし、ここは繁華街に近く、放送会館の建設に必要な広さにまで拡張できなかった。新しく候補地として浮かび上がったのは、松山市道後1135(道後樋又6-24)である。城北の文教地区の一角にあり、県庁、市役所などに近い市街地の中心からは少し離れていたが、なによりも3,610平方メートルという広さに将来性が感じられた。1962(昭和37)年7月12日の取締役会は、創立10周年を期しての放送会館建設とこの用地購入案を承認した。その資金対策として、36万株、1億8,000万円の新株式発行による倍額増資にふみきった。新株式はすべて株主割り当てとしたが、不況色が拡がって倍額増資と経営体制放送会館の建設第1節放送会館と経営近代化54松山市道後樋又の放送会館建設予定地

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