24時間テレビ停波となった1962(昭和37)年春の労働争議はラジオ・テレビ兼営時代の急成長に適応できていない経営体質の遅れを顕在化させることになった。ラジオ創業以来、常務取締役として精励した松本亨が争議の責任をとって辞任した。こうした事情の下で1962(昭和37)年6月、経営管理のエキスパートとして門田圭三が取締役副社長に迎えられた。門田は東京帝国大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社した。太平洋戦争では従軍記者として最前線のラバウルに派遣され、潜水艦で危うく生還した体験を持つ。戦後も政治部で活躍したが、実業界に転じて日本発送電総裁秘書となり、電力事業再編成で四国電力の社長室長などを歴任した。この時は、同社取締役愛媛支店長の職にあった。門田は1959(昭和34)年以来わが社の監査役を務めており、ジャーナリストの経験から放送事業についての見識も高い。山中社長の懇望をうけて南海放送入りを決意した。6月の第18回定時株主総会では、ラジオ局長光田稔、東京支社長渡部毅一、企画局長平松恵喜治の3人も、取締役に選任された。経営刷新の課題は、ラジオ・テレビを一体化した放送会館の建設を中心に、事業の近代化、社内秩序の確立、職場環境の改善であった。事業年度毎の業務計画の策定、稟議書制度が導入された。まずは社内の意志疎通からと門田副社長の指示によって「社内報」が創刊された。経営に関する情報も随時「社内速報」で従業員に知らせることにした。同年末の第19期定時株主総会後の取締役会において、門田副社長は代表権を持ち、経営近代化の責任と推進役を一手に担うことになった。門田副社長と経営近代化51第3節 試練を越えて副社長 門田 圭三
元のページ ../index.html#72