労使交渉はふたたび地方労働委員会の斡旋に持ち込まれたが、歩みよりはみられなかった。滞米中の山中社長はNAB大会後の視察旅行の日程を急遽変更して帰国、4月11日から労使交渉が再開された。経営トップが交渉の場について、ようやく解決への糸口がみえてきた。成行きを見守っていた地労委は16日、①基準内賃金2,700円の増額。②交通手当300円の増額。③大卒初任給3,000円の増額-の3点のほか、1.労使双方は現行労働協約の解釈上の不一致については労使委員会において協議決定する。2.会社は職場明朗化その他の要求事項に関して、組合の要望を参考に善処する。3.争議中の責任問題については、労使双方の自主的交渉により誠意をもって解決する。との斡旋案を提示した。労使双方はこれを受け入れ、スト突入以来18日ぶりに争議が解決した。南海放送労働組合は創業まもない1953(昭和28)年12月に結成された。初代執行委員長には報道課長の吉田秀泰が就任した。いちはやく「60歳定年」で労使合意を得ているが、すでに数人の高齢社員をかかえていたことにもよる。翌年には管理職が組合から脱退した。しかし、業績が上向きになると、賃金闘争が起きるようになった。1955(昭和30)年6月には賃金引き上げと生活補給金を要求し、ストライキ突入直前まで行った。1957(昭和32)年5月には組合の要求でユニオンショップ制を採用した労働協約が結ばれた。テレビ開局で社員の大量採用が行われると組合組織が一挙に拡大し、世代の若返りで活動家の体質が変わった。さらに民放労連の活動強化を背景に、労働攻勢は年を追って先鋭化することになった。50第1章 草創期の南海放送
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