伊予弁が評判になった。報道部はニュース映像の取材にデンスケ(携帯録音機)を持って行き、その録音素材を使ってラジオの録音ニュースや録音構成番組を制作した。ラジオの著しい退潮にもかかわらず、テレビ経営がはやく軌道にのったこともあって、ラジオの制作現場はどこかのんびりした気風が濃く、番組企画にも制約がなかった。それは編成局長光田稔の穏やかな人柄に負うところが多かった。1962(昭和37)年3月30日午前1時、南海放送労働組合はストライキを決行した。この夜、城山のテレビ局舎周辺に集まっていた組合員たちは、局舎内に居残っていた組合員と呼応してテレビマスターに上がる階段、送信機室前にすきまもなく座り込み、ピケを張った。18日間におよぶ長く激しい労働争議が始まった。この年の春闘で南海放送労働組合は、①基本給を一律6,000円引き上げること。②大学卒業者の初任給を2万2,000円とすること。③700~1,300円の定期昇給の実施-などを骨子とする賃金引き上げと、男女トイレを別々にすることなど職場環境の改善に関する46項目にわたる要求を会社に要求した。労働組合が提示した資料によると、組合員の平均年齢は27.4歳で基準内賃金平均は1万9,510円であった。組合はこれを中四国民放給与の中では最低であるとして、民放労連(日本民間放送労働組合連合会)の統一要求5,000円引き上げに独自の上乗せをしてベースアップを求めた。一方、会社はわが社の賃金水準は県内企業の最高水準に達しており、業界他社との比較でも労働組合の算出基準は妥当性を欠くと主張した。3月10日には第1次回答を補足して、①従来の算定基準にもとづく定期昇給を含めて、平均2,00024時間停波ストとロックアウト48第1章 草創期の南海放送
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