44第1章 草創期の南海放送受像機の急速な普及とあいまって、ナショナルスポンサーが積極的に広告宣伝にのりだしたことがあげられる。キー局からはスポンサー付きの番組がネットされた。しかし、地域の広告主にとって、テレビはまだ割高感が強かった。営業は自社制作番組のスポンサーを探してかけずりまわった。ラジオ営業の経験を生かして、商店のグループ共同提供を積極的に働きかけ、2本、3本からのスポットCMをセールスした。そのうちテレビで広告を放送している企業が信用の尺度とみられるほどになり、テレビコマーシャルの効果と重要性が認知されるようになった。1959(昭和34)年2月、広島営業所、同年6月には今治営業所、1960(昭和35)年7月には高松営業所を開設し、愛媛県外での営業活動を拡大した。ところで、1960(昭和35)年、全国のテレビ受信契約は前年の500万台から927万台に、ほとんど倍増した。この年6月にはカラーテレビの放送方式が決まった。モノクロ受像機でも視聴できるNTSC方式である。9月、東京と大阪でカラー本放送が始まった。17インチ型で42万円である。大学卒の初任給は1万5,000円の水準で、まだ手のでない買い物ではあったが、「所得倍増」が流行語となり、時代は高度経済成長のスタートラインについた。1961(昭和36)年4月、郵政省は第2次チャンネルプランを発表した。テレビの急速な普及で、テレビが視聴できない地域の人びとからは早急な対策が要望されていた。わが社は新居浜テレビ局の建設を進める一方で、宇和島テレビ局の建設も検討を行った宇和島、八幡浜テレビ局開局八幡浜テレビ局開局を祝うアーチ
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