アナウンス室などがあり、主調整卓の横にスタジオ番組を制作する副調整卓が並んでいた。地階は電気室、冷房室が置かれた。スタジオは小さいながらホリゾント、照明バトンを持つ本格的なものとなった。日本電気製のイメージオルシコン・カメラ2台、テレシネ室には16ミリフィルムプロジェクター2台、オペーク1台、ビディコンカメラ2台、テープレコーダー3台、シネコーダー1台など放送用機器が備え付けられた。局舎の設計、機器の調達、据え付けなどは、山内辰夫演奏課長と大西越丙演奏課長代理がチーフとなって行った。機器の納期が近づくと二人は、立ち会い検査のため交替で東京の日本電機多摩川工場に詰めたが、目的は何よりも、完成した機器を無事、松山へ送ることにあった。開局を急ぐ各社の注文が殺到し、発送の手はずを整えておいても、明朝工場へ行ってみると、宛先が書き換えられていたこともあった。松山へ着いた機器は荷馬車で県庁裏の坂道を登り、長者ヶ平の局舎まで運んだ。据え付けはまたしても徹夜の連続で「緊張と睡眠不足で無事に電波が出たあとはただただ眠りたかった」と大西は語っている。中四国の民放ローカル局でテレビスタジオを持つのは南海放送だけであった。1958(昭和33)年12月1日、南海放送テレビ開局の朝。松山市の繁華街大街道、湊町の商店街には歳末売り出しの看板が並び始めていた。午前10時から松山市堀之内の愛媛県民館に地元政財界人らを招き、「南海放送テレビ開局記念式典」が行われた。山中義貞社長は「瀬戸内西部をカバーするテレビの電波と、開局5年のラジオ放送をもって、郷テレビ開局の朝30第1章 草創期の南海放送テレビ開局記念式典(愛媛県民館)テレビ開局記念式典(愛媛県民館)
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