社主に礼をつくして迎えられ、テレビ・ネットワークにおける地方局の役割を熱っぽく説く正力社主の誠意にうごかされたとも伝えられている。マストバイ方式の番組ネット提示も自社に有利と判断された。後楽園球場のプロ野球巨人戦、プロレス中継を待望する視聴者の声も高く、日本テレビを番組編成の軸とすることは大方のなっとくが得られるものであった。また、番組の系列しばりがゆるやかで自由な編成ができたため、TBSはじめ1959(昭和34)年春に相次いで開局したフジテレビ、日本教育テレビ(現テレビ朝日)の番組までも導入することになった。のちに南海放送の“いいとこどり”と評された番組選択は、その後の南海放送の経営基盤をつくり、放送事業の発展に大きく貢献するものとなった。テレビ局建設に必要な資金は1億5,000万円と見込まれた。増資で払い込み資金を一挙に3倍にし、建設資金のほとんどをまかなおうという策を立てた。1958(昭和33)年2月8日の取締役会で山中社長がテレビ局建設のための増資計画を提案、承認された。それによると授権資本を7,000万円から2億5,000万円にし、増額分のうち28万株1億4,000万円は新株式を発行する。新株式は郵政大臣から示された予備免許の条件によって、半数の7,000万円を公募することにした。3月8日、臨時株主総会を開き、増資に必要な定款の変更を行い新株主の募集を開始した。このうち株主割当については、2年前に増資をしたばかりであり6万株、3,000万円に上る失権株が出た。失権株による不足分は、借り入れなどでまかなうことにした。公募についてはわが社取締役で本州製中四国初のテレビスタジオ28第1章 草創期の南海放送テレビスタジオ放送風景
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