という申し入れがあった。わが社もテレビの免許申請にあたって、送信アンテナを松山城中腹の長者ヶ平に建設する計画書を提出していた。市街地の中心に位置してはいるが、海抜85メートルしかない場所を候補地としたのは、郵政省が狭域でテレビの普及をはかる方針をとっていたことによる。城山は国指定の史跡である。テレビ塔の建設は容易に認められなかったが、ようやく「NHKと民間放送との共用なら」との条件付で許可の見通しがついた。わが社の次の経営課題がテレビであることに疑いはなかったが、大きな資金を必要とするだけに、開局の時期についても慎重にみきわめて計画を進める必要があった。この時期に鉄塔の建設に踏み切るかどうか、難しい問題であった。1956(昭和31)年10月8日の取締役会では、井関農機社長井関邦三郎の積極論がリードした。「南海放送の事業は愛媛の文化向上のために始めたもので、利益を目的としていない。テレビ事業にもその基本姿勢を貫くべきで、この機会をとらえて早く開局準備に着手すべきだ」と強調した。一代で農機具会社を築きあげた人物の先見力であった。この取締役会の決定を受けて、11月30日、地上77.5メートルのテレビ塔をNHKと共同で建設する計画が結ばれた。南海放送テレビの開局まで2年余りを残しての決断である。建設工事費はおよそ2,000万円、南海放送とNHKが1:2の割合で分担した。鉄塔建設は高松市の岡田建設に発注されたが、現場監督は宮地建設(東京)の竹山正明氏(当時31歳)が担当した。建設素材は県庁横の二之丸登23第2節 テレビ開局二番町よりテレビ塔を望む・正面は松山地方裁判所旧庁舎井関邦三郎取締役
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