南海放送50年史
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しかし、すでに開局費用だけで7,500万円を超えていた。借地のつもりにしていた社屋用地を購入に切り替えたこともひびいた。10、11月2か月間の決算は営業収入615万円に対し、営業費用は倍の1,236万円にふくらんで673万円余りの赤字となった。毎月10日の支払日には金庫が空になり、給料日の25日には銀行からのつなぎ融資で、夕方やっと給料袋が支給されるありさまであった。給与は電波、新聞など関係職種からの中途入社したものに対して前歴の水準が保証されたが、その他は一律に男子6,000円、女子4,000円である。現業部門では、時間外手当が基本給を上回るほどのこともあったものの、それも夜食代に消えてしまう。年の暮れ、課長級に2,000円、一般従業員には1,000円が代として支給された。苦しい経営を乗り切るため、さまざまな経費削減策がとられた。共同通信からのニュース配信を一時、時事通信に切り替えたこともあった。1954(昭和29)年4月には年齢に応じて給与を引き上げる代わりに時間外手当てを一定時間内にとどめた。交通費、事務用品から番組制作費の支出まで、安井総務局長が制作伝票の一枚一枚を丹念にチェックして放漫支出を見逃さなかった。朝鮮戦争後の緊縮財政による不況感が重くのしかかる中で、資金繰りに追われる厳しい経営が続いたが、一方では、予想外に早く放送局経営に確かな手ごたえがでてきた。開局当初の1953(昭和28)年10月のタイムセールスは、1日平均わずか1時間24分でしかなかったが、半年後の1954年5月には4時間50分に達した。その結果、第2期(1953年12月~1954年5月)は2,168万円の営業収入を記録、収支がほぼ均衡してきた。この期は開業費目への戻し入れがあり、決算でさっそく563万円の経常利19第1節「ラジオ南海」の誕生木炭燃料で県下をまわった公録バス

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