南海放送50年史
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1.工事の落成期限 昭和28年12月1日2.電波の型式及び周波数 A3 1120キロサイクル3.呼出符号及び名称 JOAF ラジオなんかい4.空中線電力 昼間1kW夜間500W5.運用許容時間 常時この予備免許を受けて、開局を10月1日とすることが正式に決定された。放送開始まであと2か月である。予備免許が下りた日から、愛媛新聞を退職した5名が創立事務所に詰めるようになった。各部門の責任者として、総務局は創立事務を担当してきた安井隆、編成局は愛媛新聞社論説委員の光田稔、技術局は四国電波監理局長を退任した樋口庄八の就任が内定し、まず組織の骨組みができあがった。放送技術経験者は京都放送からきた山内辰夫、元満州電電ハルピン中央放送局の技術者で引き揚げてきたばかりの河村幹夫など数名、番組制作では京都放送から参加した菅不二夫などがいた。のちにドラマやCMの音楽で活躍する小倉博もいた。9月1日、東京で研修中のアナウンサーを除く本社関係の従業員が愛媛新聞社の2階ホールに集合した。まだ工事中の本社社屋は次々に放送機器が到着して足の踏み場もないありさまだったが、そこが応急の事務所にあてられた。創立時の従業員数は85名である。当初は55名程度と見込んでいたが、定時ニュースを自前で編集することになり、自主取材や、かなりの時間数、自社制作番組を必要とすることなどから大幅な増員となった。定時ニュースは新聞社から提供をうけている局がほとんどの中で、独自のニュース編集権を持つことは人材育成にも役立った。放送機器の据え付けは徹夜に徹夜をかさねた。試験電波のコールサインはアナウンサーが市坪の送信所から放送していたが、9月28日の夜になって、ようやく本社演奏所と送信所の回線がつながった。同じ日、創立総会が開かれた。発起人会で一度は9月5日7第1節「ラジオ南海」の誕生送信所内部開局当時のラジオスタジオ

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