だ。第3回放送『老樹は繁る』は松山大学の創立者新田長次郎の生涯と事業をとりあげた。新田長次郎は1857(安政4)年、温泉郡山西村(現松山市山西町)の農家に生まれた。秋山好古より2歳年長である。20歳のとき大阪に出て、ヨーロッパ式製革技術を学び、技術に改良をかさねて、東洋一とされるベルト製造事業に成長させた。皮革製造に用いるタンニンを採るため、北海道の原野に自生する柏の原生林を伐採した。さらにその廃材からベニヤ板の製造事業を起こすなど、関西実業界で大成した。1911(明治44)年には貧しい家庭の子供の教育のため、難波に私立有隣小学校を設立した。さらに1923(大正12)年には加藤拓川(正岡子規の伯父、松山市長)の要請にこたえて、松山高等商業学校の校舎建設費から教職員の給料など創立費の大半を負担し、のちに東の大倉高商、西の松山高商と並び称せられる高等商業学校を郷土のために設立した。番組は長次郎が北海道の幕別町で起こした事業(ニッタ株式会社)、池田町の新田牧場を訪ねた。軍馬改良に関心が深かった秋山好古は、北豫中学校長時代にも夏休みに入ると遠い新田牧場を訪ねることを楽しみにしていたという。経営訓は「発明・改良・円満」。ここにも進取の気性と気骨に満ちた明治人の面影があった。この「もうひとつの坂の上の雲」シリーズすべてで聞き手役をつとめた門田圭三会長は「この番組はわたし自身、これまでになく勉強になった」と語っている。激動の時代を生きた郷土の先覚者の志を次の世代に語り継ぐ風格ある番組となった。「明治は多くの欠点を持ちつつ、偉大な時代というほかない」(司馬太郎)1996(平成8)年2月12日、作家司馬太郎氏が急した。『えひめ菜の花忌シンポジウム』247第3節 文化遺産の継承『老樹は繁る』門田相談役と作道洋太郎大阪大学名誉教授松山大学の創立者 新田長次郎
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