南海放送第1期生社員採用に応募し、技術専門職として入社した。1958(昭和33)年12月のテレビ開局時には、不眠不休で放送設備、局舎の設計を行った。また、1962(昭和37)年には総務局企画部長となり、道後樋又の放送会館建設と放送設備の移転に全力を傾けた。1970(昭和45)年12月、取締役技術局長に就任、常務取締役、代表取締役専務、同副社長ののち、1988(昭和63)年12月、南海放送の第5代代表取締役社長に就任した。豪放磊落な人柄で交際も広かったが、仕事に対しては細心なまでに緻密さを要求した。「技術である以上、1級無線技術士の資格はかならずとれ」が口癖で、プロフェッショナルとしての自覚を説いた。民放連理事、同技術委員長などの要職のほか、愛媛経済同友会代表幹事を務め、財界活動にも熱心だった。1998(平成10)年8月9日には大内信也元取締役副社長が去した。大西会長と同期に入社し、早稲田大学で日本近代史を専攻した博覧強記の人。報道第2課に配属されたが、ニュース原稿のリライトに飽き足らず、外勤記者にまわってラジオ初期の政治討論番組『県政スタジオ』の司会を務めた。全国的に波紋を呼んだ教員の勤務評定問題などの取材にあたった。テレビ時代の初代報道課長として活躍、テレビニュースを軌道にのせた。硬骨漢として知られ、編成局長時代には色気とレジャーの人気番組『11PM』を低俗として、ネットに反対を押し通した。取締役東京支社長、常務取締役業務本部長、専務取締役ののち、1992(平成4)年、取締役副社長に就任した。著書に『帝国主義日本にNOと言った軍人・水野広徳』(雄山閣)がある。また、南海放送創立40周年記念出版『水野広徳著作集』の刊行では、編集委員として全8巻を完成させた。享年69歳。236第6章 経営改革の時代副社長 大内 信也
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