南海放送50年史
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され、即日受理された。この申請書には、ローカルに根ざした放送活動への決意が表明されるとともに、「新しい地方文化の創造」という設立の趣旨が繰り返し強調された。その精神はいまも変わらず受け継がれている。免許の申請と前後して、『RADIO NANKAI企業目論見書』と題する小冊子が県内の企業経営者に送付された。それには愛媛県民の文化向上に資するラジオの公器性に理解を求め、各方面からの出資による協力を要請している。放送設備などを調達する資金が必要であった。資本金5,000万円とし、発起人が3,500万円を引き受けることにした。残り1,500万円は、一般から募集することになったが、広告収入だけで経営する民間放送事業を理解してもらうには、日時が不足していた。やむなく授権資本を5,000万円とし、発起人引き受けの3,500万円を第1回の払込み金にあて、とりあえず会社を設立することになった。不足分については放送を開始したのち、改めて一般から募集することにしたのである。一方、いくつかのルートを通じて資本提携の打診があったが、全国の地方紙をまわり、民放設立を熱心に推進していた電通の吉田秀雄社長が「まちがいなく将来性のある事業です。わたしが応援するからあとに問題を残さないようにがんばりなさい」と、平田を励ましてくれた。送信所は申請書作成の段階では温泉郡余土村(現松山市余戸)との境に近い松山市富久の農地に建設を予定していたが、折衝の大詰めになって話がまとまらなくなった。アンテナ周辺の住民が他局を受信する際、障害を起こすという理由からである。富久地区での建設をあきらめて余土村周辺で新しい候補地選びをはじめたときはすでに5月に入っていた。安井は余土村の森千枝松村長をジープに乗せて村内を走りまわった。本社社屋と送信所の建設4第1章 草創期の南海放送予備免許

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