南海放送50年史
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代のメディアとしての民放ラジオの将来性について話を聞いて、立ち遅れが心配になった。ベルリンに到着後、ただちにホテルから愛媛新聞社あてに電報を打った。「ミンポウノシンセイヲイソゲ」平田は京都日々新聞、大阪毎日新聞を経て、1946(昭和21)年に愛媛新聞社社長となった。戦後わが国で初めて「新聞週間」を提唱し、紙面キャンペーンや標語づくり、講演会などの行事を展開したジャーナリストである。平田の帰国を待って、愛媛新聞社の取締役会は民放ラジオ局設立を決議した。年が明けてさっそく設立発起人会が結成された。折から、この年10月には四国で、松山を主会場に第8回国民体育大会が開催されることになっていた。この四国国体を電波にのせることを目標に、開局を急ぐことになった。設立発起人の一人となり、のちに代表取締役会長として創立当初の南海放送の経営に貢献した武智鼎(伊予鉄道社長)は、平田の話を聞いて、「相当な覚悟がいるよ」と言いながらも熱心に耳を傾けた。一代で事業を起こした井関農機社長井関邦三郎は「それはおもしろい」と身をのりだしたという。その他、県政財界をリードする人たちも、「愛媛の文化、経済の発展のために」と一致して協力を約束してくれた。設立事務は、愛媛新聞社主筆松本亨と公職追放で同社を退職していた安井隆に委嘱された。会社設立のためには、まずラジオ放送局の免許を得なければならない。松本と安井の仕事は、免許申請書をつくることから始まった。この頃、ふたたび民放の出願ラッシュが起きており、四国国体までにという開局の目標からも、申請は一刻を争う状況にあった。できあがるのを待ちかねて、夜行列車で東京へ運ばれた申請書は、2月28日付けで郵政省に提出開局準備へ急ピッチ3第1節「ラジオ南海」の誕生企業目論見書免許申請書

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