南海放送50年史
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に急かされ、白川隊と別れて単独登山を決行した。その結果、白川氏と「ビンソン・マシーフ登頂半ばで不本意なお別れ」(田中・大塚の報告書)をして下山した。白川氏はこのあと登頂に成功したのだが、南極大陸最高峰の頂上から白川氏が「地球再発見による人間性の回復」を呼びかけるクライマックスとなるはずの場面は、南海放送登山隊が主役になった。白川氏は「白川氏の了解を得て登った」とする南海放送側の説明を認めず、背信行為として著書、新聞などで激しく非難した。白川氏は現地での滞在期間の短い南海放送隊のために、ホームビデオでペンギンの生態を撮影するなど気くばりが多かっただけに、南海放送隊の行為を許さなかった。ビンソン・マシーフ第2キャンプに到着した時点で日程の遅れを本社に連絡し、定期便をキャンセルする対応の方法があったとは考えられる。登頂に成功して下りた第3キャンプで、定期便が予定通り16日に出発するとツアーコーディネーターから無線連絡をうけて下山しているのだが、搭乗日程について交渉の余地はまったくなかったであろうか。極地の山からツアーコーディネーターを経て本社とすぐに連絡をとるのが難しいことは事実である。自分たちの決断以外に道はなかった。南海放送は「地球再発見」をテーマとする白川氏の写真展『ヒマラヤ写真展』を1972年秋、愛媛県立美術館で初めて開催して以来、20年にわたる信頼関係を築いてきたが、まさに不本意ながら、友誼に終止符が打たれることになった。全国ネットワーク番組の放送という成功の一方で、白川氏との決別という不幸な出来事が残されたことを苦い思いとともに記録しておきたい。創立40周年記念事業は「ふるさとを美しく」をキャッチフレーズに多彩に展開された。記念事業の主なものに、「東芝グラ地域密着の文化事業204第5章 民放4局化時代

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