第5章 民放4局化時代バブルに沸いた景気は1991(平成3)年に終わりを告げた。この年の5月から日本経済は個人消費と民間設備投資にかげりが出はじめ、景気は調整局面に入っていった。1989(平成元)年の暮れには3万8,915円87銭を記録した東京証券取引所第一部の平均株価は、1992(平成4)年の8月中旬には1万5,000円を割り込んだ。こうした景気の低迷に消費者の購買意欲は急速に落ち込み、バブル期に積極的な設備投資を進めた企業の業績が悪化し、財テクの破綻から巨額の含み損を抱えるところも多くなった。バブルの崩壊である。景気の悪化は、放送業界にも深刻な打撃をもたらした。この年、衛星放送や都市型ケーブルテレビの普及に加えて地上波ローカル民放の多局化が一挙に進んだ。愛媛地区ではTBS系列の第3局伊予テレビが10月1日開局、テレビ朝日系列の第4局にも周波数の割り当てが決まった。民放2局時代から一挙に民放4局が系列に別れて競合する時代を迎えることになった。それは小さくなった広告費を民放4局が奪い合うことと同時に、比較的自由に番組を選択できた時代の終わりを意味した。1992(平成4)年10月からの62期に入ると、わが社のテレビは対前年比91.3%、ラジオは92.4%、営業収入全体で91.9%と前年を下回り、開局以来、初めて営業収入がマイナスを記録した。この年を境に営業収入は右肩下がりの傾向が続くことになる。バブル経済の崩壊第1節激動期の経営186
元のページ ../index.html#207