南海放送50年史
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新天皇の神器承継の儀とつづく。午後2時35分、小渕官房長官が新元号を「平成」と告げた。日本テレビの特別番組はあわただしい一日の動きを伝えたあと、『昭和史と天皇・児島襄が語る激動の昭和』、『ドキュメント・昭和が終わった日』、『天皇陛下と私』などの長時間番組をすべてCMぬきで放送した。長く暗い戦争の時代、焼け野原から不死鳥のように立ち上がり経済成長をとげる時代の折々に天皇陛下のお姿があった。松山市役所をはじめ一般家庭でも弔旗が掲げられた。愛媛県庁、護国神社などでは記帳所が設けられ、静かに祈念する人びとの姿がみられた。愛媛県教育委員会は小中高等学校の始業式を予定通り行うこと、6日間の弔旗掲揚、校長謹話を行うよう通達した。年始行事の中止、予定変更もあいついだ。皇族がたの入浴のために造られた道後温泉の又新殿は1月末日まで拝観中止、各地の消防出初め式、七草がゆの集い、武道館の鏡割りなどの行事も中止または延期になった。ローカルニュースはこれらのお知らせを多数もりこんだ。午後3時30分からは、戦後3度にわたる愛媛県への行幸を中心とする自社制作特別番組『伊予路の天皇陛下』(2時間30分)を放送した。1950(昭和25)年3月の四国巡幸、1953(昭和28)年10月の四国国体開会式、1966(昭和41)年4月の全国緑化大会の映像を中心に構成したものである。わが社は東京支社に持ち込まれた西川発声映画研究所製作の『四国巡幸・愛媛県』(29分)のフィルムを入手していた。モノクロフィルムには1950年3月17日から21日までの5日間、愛媛県下を巡幸された天皇陛下の貴重な映像が記録されている。川之江から宇和島まではお召し列車で、宇和島からは自動車で一本松を通って高知県に向かわれた。先導役をつとめる戦後初の公選知事、青木重臣の顔もあった。天皇陛下は新居浜、松山、宇和島など各地でお立ち台に立たれて群衆の歓呼におこたえになった。172第4章 ローカルワイドの時代小渕官房長官が新元号は「平成」と発表(写真提供:共同通信社)県庁にも弔旗が揚げられた県庁に設置された記帳所

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