南海放送50年史
172/358

た個々のCMの取り出しが可能になった。新CMバンクは従来のようにCM素材をマザーテープにダビングし、再度放送日ごとに1本のテープにダビングする方法と比較すると、作業効率、運用効率とも飛躍的に向上した。1986(昭和61)年秋、日本列島は円高不況におおわれていた。この年の暮れ、来島どっくグループ経営の地方紙、日刊新愛媛が廃刊となった。『スケッチスペシャル・新聞が消えた』は大みそかの早暁、最後の新聞を刷り上げて輪転機が止まるまでの1日をドキュメント映像で描いた。日刊新愛媛の累積債務はこの時、60億円にも達していた。1978(昭和53)年、日刊新愛媛は宇和島市から松山市に本社を移転するとともにコンピュータ技術による最新の編集印刷システムを導入した。グループぐるみの販売拡張活動で発行部数は最盛時25万部にも達し、愛媛新聞に迫る勢いとなったが、その紙面は他紙にはみられぬ個性が強かった。坪内寿夫オーナーと愛媛県知事白春樹氏が長く対立関係にあったところから、白県政に対する厳しい批判記事が注目を集める一方で、「財界リーダー」坪内氏の動静が大きく伝えられるなど、社会の公器である新聞を私物化しているという声も少なくなかった。1984(昭和59)年8月、鬱積した対立に火がついた。松山市に新設される県立高校の用地問題にからみ、日刊新愛媛が「自民党県連が違法な負担金を松山市に要求、これは県の意向」と報道した。白知事はこれを「虚偽報道」として、行政資料提供をふくむ一切の取材を拒否すると同社に通告した。県庁内にあった記者クラブでの発表を中止し、別の場所に移すなどして日刊新愛媛の記者を取材現場から排除した。愛媛県主催の行事では、会場前に県職員が立ってカメラ撮影まで妨害するありさまだった。また、愛媛県教育委員会以下、白知事を支持する市町村、経済団体、農業団体などまでも報道倫理と取材拒否事件151第1節 ニュースと生活情報の融合取材拒否を受ける日刊新愛媛の記者愛媛県庁取材拒否を受ける日刊新愛媛の記者

元のページ  ../index.html#172

このブックを見る