にわたって培ってきた情報の収集力と地域社会における信頼性、多様な番組制作の能力を活かすことに力を入れた。その中心になったのが、生ワイド番組の刷新である。1981(昭和56)年10月5日、装いを新たにした二つのワイド番組をスタートさせた。まず『おはようなんかい』(月曜日~土曜日・午前7時15分~11時)は、従来8時30分からであった『こんにちはなんかい』の開始を早め、早朝の情報強化をはかった。同時に、朝の生活への対応をよりきめ細やかにして、それぞれの時間帯ごとに聴取者を設定し特色を持たせた。一方、午後には新ワイド番組『SUNサンワイド』(月曜日~金曜日・午後2時~4時30分)を編成した。娯楽性を重視した番組であった。また技術面では、送信側で低音、高音の成分を強調し、音域を広げる「プリエンファシス方式」を導入し、音質の改善に努めた。松山の花火大会は、PL教団が1953(昭和28)年から3年間開催したのが始まりだった。その後1971(昭和46)年になって重信川出合橋付近を会場にして再開し、1972(昭和47)年から松山まつりの行事に組み込まれて松山市民の夏の楽しみになっていた。しかし1980(昭和55)年中止された。市民のあいだからは、花火大会の復活を望む声が強く、わが社では、1983(昭和58)年、創立30周年にあたり、この花火大会をサンパーク南側の重信川河川敷で行う計画を立てた。同時に家畜業者をはじめ周辺民家への協力依頼や、交通アクセスなどの課題を慎重にクリアした。門田社長を大会会長に、細田専務を委員長と松山まつり前夜祭花火大会142第3章 総合文化産業への出発華麗な大玉の打ち上げ
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