南海放送50年史
162/358

れ、1988(昭和63)年には畦地梅太郎記念美術館が建設されたほか、運動ひろばをフットボール練習場に転用するために照明設備、クラブハウスが増設されるなどした。このため、初期からの設備投資は約28億円にもふくれあがり、減価償却費、営業費が重い負担となった。老朽化した放送設備の更新が先送りされるケースも生じた。本町会館、サンパークにおける文化事業活動は、地域の視聴者との交流、良質の文化にふれる機会の提供など地域の民放としての役割をはたしたものとして大きく評価されよう。その設備投資は免許事業という放送の特権的な経営に支えられて借入金をともなうほどのものとはならなかったが、民放4局化によるテレビ営業収入の大幅な減少、放送衛星など新しいメディアの登場は、自立できぬ文化事業への再検討を迫るものとなった。エフエム愛媛は1982(昭和57)年2月1日、全国5番目の民放FM局として開局、松山につづいて4月9日までに新居浜、八幡浜、宇和島の3局でも放送を開始した。わが社は、FM局の出現を時代の流れとして受けとめ、免許申請の一本化調整にも協調する立場を取ってきた。しかし、FM局の出現がわが社の編成、営業成績に多大な影響を及ぼすことは避けられない情勢になった。わが社のラジオはすでに1980(昭和55)年に7局体制をとり、聴取者サービスの向上をはかってきたが、1981(昭和56)年3月、FM対策委員会を発足させ、1年後に予想されるエフエム愛媛の開局にそなえ、さらなる対策を進めることにした。FM放送はその特質を生かし、音楽を中心とした番組編成を行うことは明らかであった。これに対し、わが社は30年間エフエム愛媛の開局と対応141第4節 創立30周年エフエム愛媛サンパーク美術館サンパーク・芝能の夕べ

元のページ  ../index.html#162

このブックを見る