南海放送50年史
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をしながら一人でラジオを聴く若者への独特の語りかけが人気を集めていた。深夜の時間帯はヤングたちの「解放区」と呼ばれた。1969(昭和44)年10月、放送終了時刻を午前1時までに延長したのを機会に、1970(昭和45)年6月には新番組『WAI-YOUNG』(月曜日~土曜日・午前0時30分~午前1時)がスタートし、『みゅーじっく・まらそん!』とともに泉浄彦、宇都宮基師、富田裕、曽我泰朗らの若手アナウンサーが若者たちの人気を分けた。番組毎のファングループが県下各地に生まれ、これらを結集した「ヤングなんかい大会」も盛況だった。わが社は1965(昭和40)年、TBSラジオを基幹局とするJRNに加盟、単一ネットワークによる番組編成を行ってきたが、1979(昭和54)年4月、ニッポン放送・文化放送によるNRNラジオネットワークにも参加することになった。この複合ネットで若者たちに絶大な人気を博していた「オールナイトニッポン」(LF)が導入され、深夜の時間帯がいっそう強化された。日曜日を除く全曜日を24時間放送に拡大した。プロ野球人気全盛で月曜日夜にもナイター中継が編成された。1980(昭和55)年12月、大洲ラジオ局、御荘ラジオ局が開局し、ラジオは7局体制となった。大洲ラジオ局は大洲市五郎に送信アンテナが建設された。大洲局のコールサインはJOAN、周波数1233kHz。御荘局のコールサインはJOAS、周波数1431kHz。南宇和郡御荘町深泥に送信アンテナが建設された。空中線電力はともに100ワットである。松山・新居浜・宇和島の3基幹局、1977(昭和52)年に開局した今治・八幡浜ラジオ局とあわせて7局となり、海岸線の長いサービスエリアをほぼカバーする体制が完成した。NRN加盟・7局体制130第3章 総合文化産業への出発

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