80平方メートルの店内は、来店客で身動きもできぬほどいっぱいになった。中学生、高校生が人込みをかきわけながらマイクの前に集まった。初日の売り上げは期待の3倍を超えた。6月には湊町・二宮靴店の新装開店イベントがラジオにまかされ、ふたたび成功を収めた。『レッツゴー!バッグのタナカ作戦』は、民放連ラジオ強化委員会に成功事例の一つとして報告され、ラジオ復活への自信となった。この年3月、ラジオ強化に重点をおく組織改革が行われた。ポイントは業務部をラジオ・テレビ別に分けて、それぞれに編成・営業のコントロールタワーとしての責任を明確にしたことである。ラジオ業務部は番組企画に対する提案力を高めることになった。アナウンス部も放送部と改められ、ラジオ番組の制作機能を持たせた。ディレクターの発想の枠内でしか活躍できなかったアナウンサーの感性が、従来の教養色の濃い番組制作に意識転換と大きな活気をもたらすことになったのである。“ぱぁーん”ピストルの号砲とともに軽快なテーマ音楽が始まる。1968(昭和43)年4月、『みゅーじっく・まらそん!』(月曜日~土曜日・午後4時10分~5時)が始まった。番組の合言葉は「ラジオでつくろう友情の広場、42.195キロを50分で」。ラジオヤング路線の誕生である。『みゅーじっく・まらそん!』の放送時間になると、スタジオは学校から直行の中高校生でいつも満員、熱気にれた。田中カバン、お菓子のパリッコ(現うつぼ屋)、道後ボウルの3社が提供と決定、営業的にも成功した。’60年代後半、東京、大阪のラジオ深夜番組では、新しい聴取層として中高校生たちのヤングリスナーが、注目されていた。南海放送ラジオでは門田洋子アナウンサーによる『夜のバラード』(月曜日~日曜日・午後11時50分~12時)が受験勉強ラジオ深夜番組の成功129第2節 創立25周年
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