労働組合も週休二日制への移行を強く求めてくるようになった。地域の実情なども考慮しながら検討を重ねた結果、わが社は1979(昭和54)年7月、「週休二日制検討委員会」を設置し、実施に向けて取り組みを開始した。検討委員会は、「人員増はしない」、「基準外勤務の増加につながらない」、「業績・業務および番組の内容を低下させない」、「対外サービスの低下をきたさない」という4点を前提に作業を始めた。2度にわたる職場単位のアンケート調査などをもとに、17回にわたる会合を重ね、1979(昭和54)年11月30日に答申した。その内容は全社的な意思統一と協力があり、業務の改善が実施されれば、ほぼ全社的に週休二日制は可能であるというものであった。これを受けて事務局では実施案の作成に入るとともに、新しいENG機材やVTR-CMの自動編集装置などの増設を急ぐことになった。週休二日制は1980(昭和55)年4月1日から試験実施に入り、10月1日、本実施に移された。週休二日制によって生じる新しい休日は「研修休暇」とすることになった。’60年代後半から’70年代前半にかけて、南海放送ラジオに『みゅうじっく・まらそん!』、『WAI-YOUNG』、『夜のバラード』などの若者むけの番組が登場し、ラジオの第二黄金期というべき活気が生まれた。ラジオ復活のきっかけは1968(昭和43)年2月の『レッツゴー!バッグのタナカ作戦』の成功である。大街道の田中カバンの新しいバッグ専門店の開店イベントをラジオにまかせてもらった。オープン10日前から毎日10本の10秒スポットで雰囲気を盛り上げ、開店当日には午後2時10分から3時まで本社-店内を結ぶ2元生放送の公開リクエスト番組を編成し、放送開始にあわせて10人の“ミス・タナカ”を街頭に立たせて高級バッグがあたる抽選カードを渡した。ヤング路線でラジオ復活128第3章 総合文化産業への出発クライアントの店から中継高石佳代子・泉 浄彦アナウンサー
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