南海放送50年史
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スを多角的な視点でとらえる姿勢が多くみられるようになった。NNN西日本ブロック局が協力し合う報道活動にも積極的に参加するようになった。1979(昭和54)年10月の総選挙速報では、テレビスポット管理業務に導入されてまもないH-8250オンラインシステムコンピュータを駆使した結果、愛媛2区の3位当選者と次点得票者の差11票をはじきだし、他局に40分の大差をつけた。翌年2月には字幕表示に興和㈱製の漢字ディスプレイ装置を導入し、テレビ制作部美術担当の竹政勝がニュース、制作番組の画面づくりに多様な手法を開発したのでメーカーから参考にされるほど利用された。テレビにも「福祉の時代」が始まろうとしていた。1978(昭和53)年8月26日午後8時、日本テレビの第1回『24時間テレビ・愛は地球を救う』がスタートした。24時間の連続放送をつうじて「身体障害者に愛の手を」、「寝たきりのお年寄りにお風呂を」と、視聴者に愛の募金を呼びかけるテレビ・キャンペーンの展開である。報道制作局は『なんかいワイドニュースtoday』の中に「愛の手を待つ人びと」と題するプレキャンペーンを織り込んだ。募金受付けは営業開発局事業部が受け持つことになり、松山市営球場で催された「ミュージックナイター」で若者たちの協力を得て募金を呼びかけたが、福祉のための募金は初めての経験で手ごたえはつかめなかった。週末編成にはクロスネット番組が特に多く、完全な24時間放送とならなかったこともあり、社内の関心も薄かった。しかし、萩本欽一、徳光アナウンサーの司会で始まった番組はものすごいばかりの反響だった。事業部が用意した特設電話、交換台の応援だけでは殺到する募金申し込みを受けきれなくなった。守衛室、報道の直通電話が鳴りづめとなった。あちらこちらの机の上で鳴る電話をとると、視聴者からの怒24時間テレビ『愛は地球を救う』の反響124第3章 総合文化産業への出発募金受け付けの電話は鳴りっぱなし

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