「架橋で豊かな町づくり」―。1979(昭和54)年5月12日、瀬戸内海大橋・尾道-今治ルートの最初の橋、大三島橋(全長328メートル)が完成した。白知事らによるテープカット、高齢者夫婦の通り初めなど開通祝賀行事がにぎやかに挙行された。本州と四国を橋で結ぶ夢の構想は、1955(昭和30)年5月11日に起きた宇高連絡船紫雲丸の衝突沈没事故が契機となって構想が浮上、明石-鳴門ルート、児島-坂出ルート、尾道-今治ルートの早期着工を競って、四国側でも徳島、香川、愛媛3県は激しい誘致合戦を展開した。いったんは3ルート着工が決定した。尾道-今治ルートはまず大三島橋の着工が認可されたが、1973(昭和48)年10月に勃発した第4次中東戦争が引金となった石油ショックの影響で物価が暴騰、国民生活安定緊急措置法が公布されるなどしたため着工直前に延期となった。ようやく1975(昭和50)年、1ルート(児島-坂出)3橋(鳴門大橋、因島大橋、大三島橋)の着工が決定、3年5か月の歳月をかけて大三島橋が完成し、夢の瀬戸内海大橋実現の一歩をふみだしたのである。のちに「しまなみ海道」と名付けられる尾道-今治ルートに対する島の人びとの期待は大きかった。わが社は午前10時からテレビ特別番組を編成し、現地からの4段中継による生放送で開通式の模様を伝えた。1979年1月の対日原油供給削減の通告(第2次石油ショック)などで高度経済成長を享受した戦後の日本は一つの転換期を迎えていた。前年の1978(昭和53)年9月、報道部記者薦田高士、カメラマン高橋是が牛肉・オレンジの輸入枠拡大をめぐる日米交渉の取材にNNN特派員として派遣され、ワシントンにおける交渉の経過を見守った。この時期、テレビニュースのワイド化とともにENGの軽量化が進んだ。『なんかいワイドニュースtoday』ではニュー架橋時代-大三島橋の完成123第2節 創立25周年米、カリフォルニアの農園で大三島橋開通式大三島橋
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