る”や、町内で評判の女性を紹介する“○○小町”のコーナーは新鮮だった。出演者からも「番組に出て以来、新しいコミュニティ意識が芽生えた」とか、「町内会の大切さがわかったような気がする」などの意見が寄せられ好評だった。2年後の1976(昭和51)年10月、報道番組改編にともない番組は終了。地域密着路線は『なんかいワイドニュースtoday』にバトンタッチされた。1965(昭和40)年から1970年代にかけて、ラジオで従来の制作方法を破るエポックが見られた。それは、スタジオを夜間、開放するヤングオーディエンス路線をとったこと。また個性的なアナウンサーを特定して起用する「一軍主義」の徹底だった。ハガキと電話という従来のコミュニケーションツールだけでなく、公開放送という形式をとり、パーソナリティと触れ合うことで一層の親近感を持たせ、これがヒットした。その中の一つ、『みゅうじっく・まらそん!』(午後4時10分~5時)は1968(昭和43)年4月1日から放送を開始した。午後4時の時間帯は聴取率が低く、編成面でも試行錯誤を繰り返していたが、学校の下校時にぶつける生公開ディスクジョッキーとしての編成がヒットした。初代のDJである曽我泰朗アナウンサーは、この番組で独自の語り口を開発、辛口、軽妙、ライブ感覚が相まって午後4時台にゴールデンタイムを作った。1970(昭和45)年6月29日から始まった『WAI-YOUNG』(午前0時30分~1時)は、泉浄彦、宇都宮基師ら、アナウンサーの企画制作という方式で型を破った。県下のホール、公会堂などをキャラバンしたが、局のアナウンサーが歌を歌い、芝居やコントまで披露するというユニークさに、深夜のオーディエンスが飛びついた。ヤング対象の公開放送の増加は、番組に強力な双方向性を与えた。局のイメージアップに多大な貢献もした。アナウンラジオ ヤング路線の開発91第3節 創立15周年 民放2局時代ファンに囲まれた曽我アナウンサー
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