南海放送50年史
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動が深められ、記者が頻繁に画面に登場しリポートをするようになった。こうした報道活動の中から、大型のキャンペーンが生まれた。主なものに「ミカンキャンペーン」と「愛大医学部への提言」がある。愛媛県では1955(昭和30)年頃からミカン栽培が盛んになり、一時は金の生る木とまで言われ、ミカン御殿が建った華やかな時代もあった。しかし、1968(昭和43)年は全国的に温州ミカンが豊作で、価格が暴落した。このため、県下で1968年の冬から翌年の春にかけ、ミカン栽培者の自殺が相次いだ。加えて、グレープフルーツ自由化の動きが農家を脅かすなか、それに対抗する主力の夏ミカンも1969(昭和44)年には大暴落を起こした。わが社では、“曲り角にきた愛媛のミカン”を企画ニュースで取り上げた。そして、グレープフルーツとアメリカの柑橘農家の実態を取材するため、1970(昭和45)年3月19日、NNNの代表取材として香川邦夫記者と篠原芳雄カメラマンをアメリカのカリフォルニア州とアリゾナ州へ派遣した。現地に入って篠原は驚いた。農家といっても日本のような個人経営ではなく大企業が経営する農業であった。香川は、規模が異なる姿をそのまま伝えていては、日本の農家はショックを受ける、番組上の表現では細かい配慮が必要だと痛感したという。帰国後、企画ニュースを放送するとともに、アメリカ柑橘産業の実態に関して、愛媛県下で報告会も行った。県果樹試験場長や愛媛大学農学部の助教授などの協力を得て、各地で「上映会と講演会」を開いた。輸入に対抗するには、あくまでもおいしいミカンを作り、さらに包装など何らかの付加価値をつける工夫が必要であるとキャンペーンを展開した。なお、企画部長の松崎茂和を中心に企画部のスタッフは、一連のミカンキャンペーンをとりまとめ、結果は「地域と民放Ⅳ~ローカルキャンペーンの記録~」に収められた。86第2章 大いなる飛躍へアメリカ柑橘園の取材

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