南海放送50年史
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第2章 大いなる飛躍へ1967(昭和42)年11月1日、UHF民放テレビ15社に、第一次チャンネル割当となる、予備免許が交付された。南海放送をはじめ全国のローカル民放は、小林郵政大臣の「新規局はUHF」という突然の方針変更に戸惑った。民放各社は、既存民放に1社2波を割当てられると予想していた。郵政省は、各県にUHFテレビ局設置を決定したが、一次割当てに愛媛放送は入っていなかった。愛媛地区におけるテレビ新局の申請は、すでに愛媛UHF放送、松山毎日放送、愛媛朝日放送など全12社が競願していたが、1968(昭和43)年には2社増えて14社になっていた。久松知事らの調整がつき、1968(昭和43)年11月に愛媛放送への一本化がまとまった。同月、調整が決まったことを受け、第二次チャンネル割当てで、愛媛放送が予備免許を取得した。愛媛地区におけるテレビ第2波の開局が決定したのである。厳しい競合時代の幕開けだった。愛媛放送は、1969(昭和44)年1月に会社設立、初代社長には、前愛媛県副知事の野村馬氏が就任した。その年の10月4日試験電波発射、11月松山市真砂町に本社落成。そして、1969(昭和44)年12月10日、四国地区初のフジテレビ系列局として開局した。演奏所は松山市真砂町に置き、新居浜に中継局を建設した。新しい愛媛放送は、機材施設が、既存局の4分の1と、コンパクトであり、それだけ身軽で競争力を有していた。愛媛放送 開局第3節創立15周年 民放2局時代80

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