南海放送60年史
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69[社史 第2部] 第2章 デジタルコンテンツのマルチユースて受け止め、自主的に避難を開始した人も多かった。18時25分、政府は避難範囲を20キロ圏に拡大した。20キロ圏は、後に警戒区域の設定エリアになった。 事故情報や避難指示の住民への伝達は混乱を極めた。国会事故調査委員会が避難住民1万人を対象に行ったアンケート調査では、以下のように問題点を指摘している。 原発が立地する周辺12市町でさえ、3キロ圏内避難の出た21時23分には事故情報は住民の20%程度にしか伝わっていない。10キロ圏内の住民の多くは15条報告(原子力災害対策特別措置法第15条第1項の基準に達したときの報告)から12時間以上たった3月12日5時44分の避難指示の時点で事故情報を知った。しかし、その際に事故の進展、あるいは避難に役立つ情報は伝えられなかった。着の身着のままの避難、多数回の避難移動、あるいは線量の高い地域への移動が続出した。 警察庁の報告書によれば、県の防災行政無線等による指示の連絡が確認できないため、各自治体に配置したパトカーに警察無線を通じて伝え、受信した警察官から自治体に直接口頭で連絡するケースもあった。 3月14日11時01分、3号機の原子炉建屋で水素爆発が起きた。東電社員ら8人が千葉県の放射性医学総合研究所に搬送された。15日早朝、2号機の圧力抑制室の圧力が急減し、放射性物質が大量に放出された。4号機も爆発を起こし、5階の屋根が破壊された。11時に20キロから30キロ圏内に屋内退避の指示が出た。物流が止まり、ライフラインが逼迫した。20キロ圏内には7つの病院があり、850人の入院患者がいたが、48人が移送完了時までに死亡した。避難施策は混乱し、住民に大きな負担を与えた。 4月12日に、経済産業省原子力安全・保安院が国際原子力事故評価尺度(INES)で最も深刻な事故にあたるレベル7(数万テラベクレル以上の放射性物質の重大な外部放出を伴う事故)と暫定的に評価すると発表した。同院は3月12日にはレベル4(所外への大きなリスクを伴わない事故)と評価していた。「ただちに人体に影響を及ぼすものではない」との見解を

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