南海放送50年史
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47力されたが、ラジオの低落を押し返すまでにならなかった。営業の一体化もラジオより売上げ高の多いテレビに重点が置かれがちで、責任の所在をあいまいにした。テレビの急速な普及はラジオ経営に大きな影響を及ぼしたが、一方ではローカル番組の制作活動を刺激し、新しい手法の開拓や意欲的な番組制作への活気をもたらした。1959(昭和34)年6月から始まった『郷土の表情』(土曜日午後10時~同10時30分)でとりあげた“ある人間の記録”では小児マヒの詩人、香川紘子さんと作品「方舟」をとりあげ、大きな反響を呼んだ。1960(昭和35)年10月から年末にかけては福祉キャンペーン『愛媛の底辺を知ろう』を放送した。高度経済成長にとりのこされている僻地の暮らしをとりあげたこの番組に、聴取者からたくさんの衣類や文房具がよせられた。1960年夏の高校野球愛媛県大会では松山、今治両球場の全試合を完全中継し、松山、新居浜、宇和島のラジオ3局からそれぞれの地域に近い学校の試合を選んで放送するというきめこまかな編成をしたので、ファンには格別喜ばれた。1961(昭和36)年6月にはVHF無線装置が使えるようになった。この年の大晦日から元旦にかけて、雪の石山頂から中継を行った。報道、ラジオ制作、技術の山男たちがセクションを超えて協力し、実現した。1962(昭和37)年の民放連番組コンクールでは、『雪ん子マータン』(作・西条冬吉、音楽・大給正夫、演出・関谷教子)が優秀賞を受賞、また『録音風物誌』コンクールでも「善根宿」(構成・松崎茂和)が優秀作に選ばれた。郷土史家富田狸通の社会時評『ラジオ縄のれん』(制作・土居重正)も独自の転換期のローカル番組第3節 試練を越えて

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