南海放送50年史
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用すると、毎月300万円もかかることになる。そこで、技術スタッフたちは反射板を使って山越えで自営のマイクロ送りを行うという当時としては全国にも稀な挑戦を始めた。反射板の候補地として、高縄山系など数か所が挙げられた。建設予定地調査は、1959(昭和34)年の暮から陸上自衛隊小野駐屯地の通信隊が冬山訓練として協力してくれた。ルートを早く開拓しなければ新居浜局の開局に間に合わない。厳寒の冬山で調査は数回にわたった。その結果、マイクロ反射板の建設地は石山系の堂ヶ森(海抜1,689メートル)に決まった。中央構造線に属する石断崖層で、平均勾配24度の急斜面であった。雪どけを待って1960(昭和35)年4月から建設が始まった。変わりやすい山の気候の中、ヘリコプターによる1日40回のピストン輸送で、鉄骨、セメント、ジュラルミンの板など250トンに上る多量の資材を運び上げた。こうして、高さ10メートル、幅12メートルの反射板が完成した。松山から新居浜局への距離は、57キロメートルにも及ぶものであったが、5月23日、電波監理局の検査は即日合格、技術スタッフたちの間からは、思わずバンザイの声が上がった。このような長距離を反射板でマイクロを通すことは全国にも例を見ないことであった。なお、新居浜局の用地は、新居浜市が住友林業から買い取り、無償で貸してくれたものであった。工事も地元の人たちの協力を得て、新居浜局は1960(昭和35)年6月1日、わが社2番目のテレビ局として開局し、東予地方の視聴者にも愛媛の話題、質の良い映像を届けることができた。南海放送の高校野球中継はラジオ時代の1954(昭和29)年4月7日、春の愛媛県大会にはじまる。岡本徹アナウンサーが速成訓練をうけてマイクに向かったが、必死なしゃべり方が熱戦のふんいきを伝えて独特の人気があった。高校野球テレビ初中継と中継車40第1章 草創期の南海放送堂ヶ森の反射板新居浜テレビ局開局を祝うアーチ新居浜テレビ局火入れ式

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