南海放送50年史
46/358

た。山中は宇摩郡土居町の素封家に生まれ、若くして実業の世界に入る一方、1942(昭和17)年のいわゆる翼賛選挙に立候補して当選、代議士として中央政界でも活躍するなど、政財界に幅広い知友を持っていた。終戦時には愛媛新聞社社長を務めたこともあった。その他、常務取締役に井部栄治(久万造林社長)が加わり、ラジオ・テレビ兼営時代を迎える新しい経営体制が築かれた。一方、1957(昭和32)年3月、新居浜、宇和島の両ラジオ局が開局したあとの経営は引き続き順調であった。サービスエリアの拡大にともない、電波料を改定したこともあって、第8期(1956年12月~1957年5月)の営業収入は前期を28%余りも上回る6,955万円となり、月平均1千万円の大台を突破した。開局3年目の第6期から8分の配当を行ってきたが、第9期(1957年6月~1957年11月)には7,597万円の営業収入をあげ、テレビ開局を前に株主配当を1割に増やした。業績の向上にともない、自社制作番組における報道体制が強化された。東京支社に技術要員を置いて、ニュース素材や番組のライン送りができるようになった。報道活動では日ソ国交回復で再開された舞鶴港での引き揚げ船取材、全国的な反響を呼んだ県庁職員、教職員に対する勤務評定問題などについて積極的に取り組んだ。ネット番組にも吉永小百合、藤田弓子が出演した『赤胴鈴之助』などの人気番組が登場し、松山・新居浜・宇和島の3地区で行うようになった聴取率調査でも、わが社のシェアはさらに拡大した。1957(昭和32)年12月、事業の拡大に備えて日本郵便逓送松山支店の用地、700平方メートルの売買契約を結んだ。本社用地と地続きで、テレビ放送が始まると木造平屋の建物に報道部が移り、ニュースフィルムの現像・編集などの作業が行われた。1964(昭和39)年4月、道後樋又に放送会館が建設さラジオ月間収入、1,000万円を突破25第2節 テレビ開局

元のページ  ../index.html#46

このブックを見る