南海放送50年史
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り口からの険しい山道を荷馬車で運んだ。史跡の規制があるため、道幅を広げることも木の枝を伐ることも許されなかったという。竹山氏は生駒山、名古屋、松山のテレビ塔のあと、東京タワー建設の難工事を完成させたことで知られる。松山テレビ塔は1957(昭和32)年3月に完成、同年5月、NHK松山放送局が四国最初のテレビ放送を開始した。前年に開局したNHK広島放送局のテレビ電波が対岸に伸びてきて、県下でも地域によって視聴可能となっていた。同年6月、郵政省は「テレビジョン放送用周波数の割当計画表」(第1次チャンネルプラン)を決定、テレビの全国置局計画を発表した。さらに7月、田中角栄郵政大臣が登場すると、テレビ開局に、より積極的な姿勢が展開された。懸案であったマイクロ回線も徳島-高知-松山ルートが広島から分岐できる見通しがついた。後楽園での巨人戦中継の映像に熱中する人びとの目と耳に、コカコーラなど都会文化の情報も飛び込んできた。テレビ映像の魅力はすでに圧倒的だった。入院中の平田社長の病気も回復したので、わが社は1958(昭和33)年秋を目標に、テレビ開局の準備にピッチをあげることになった。そこへ田中郵政大臣による予備免許交付の条件が示された。「マスメディア集中排除の原則」である。1957(昭和32)年10月7日付のその条件は、具体的には新聞社の代表権を有する役員が、ラジオ・テレビを兼営する放送局の代表権を有する役員を兼ねることはできないとするものである。また、新聞社の役員は放送局の役員の5分の1を超えないこと、増資を行う場合には、その50%程度を現株主以外の当該地域社会のものより公募することとなっていた。これを受けて11月8日に召集された取締役会は、平田社長が代表権を持たない取締役会長に就任することになり、後任社長には取締役の中から山中商店社長山中義貞が選任され山中義貞 社長就任24第1章 草創期の南海放送第2代社長 山中 義貞

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