南海放送50年史
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益を計上している。第3期(1954年6月~1954年11月)は滑り出しが伸びなかったものの、後半に入ると景気は回復への足取りを見せてきた。この期の営業収入は2,320万円を計上、経常利益では実質的に前期を上まわった。1954(昭和29)年9月26日、松山市三番町の国際劇場での「開局1周年記念公開録音」は、五里霧中で事業をスタートした放送事業が、とにかく軌道に乗りはじめたことに対して、心からの感謝の気持ちを込めた催しであった。青函連絡船洞爺丸沈没の大惨事をもたらした台風15号が去り、会場前には秋の日ざしの中で人びとの長い行列ができていた。歌手の若原一郎、三条町子、女優の鮎川十糸子、落語の桂米朝、浪曲の天竜三郎などの顔ぶれを迎え、昼夜2回のステージはともに満員となった。構成や進行にも1年間の成長があった。2003(平成15)年3月、本町会館落語名人会に出演した桂米朝師匠は、「50年前のこの公開録音のことはよく憶えています。神戸港から関西汽船に乗り込みましたが、大荒れの時化になりましてね。船のラジオを聴いていると、われわれの乗った船が行方不明になっているというんですな。翌朝、船が高浜港に着いた時はやれやれでした」と、思い出を語った。社歌は、開局前に作られていた。童謡作家の武田雪夫氏の作詞、飯田信夫氏の作曲になるものであった。しかし、曲が荘厳で歌うのに難しかったため、開局まもなく社員の小倉博が明るい曲に作曲しなおし、現在の社歌が生まれた。1956(昭和31)年に新居浜、宇和島両ラジオ局が開局したので、2番には新居浜局のJOAL、3番には宇和島局のJOAMのコールサインを歌詞に入れた。新年祝賀式、創立記念式典では谷村弘徳のアコーディオンによる伴奏で斉唱され、社員に永く愛されている。「社  歌」20第1章 草創期の南海放送開局1周年記念『のどくらべ県下一大会』

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