南海放送50年史
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萬翠荘とは松山市一番町三丁目の城山すそのみどりを背景にした美しい洋風の建物である。1922(大正12)年、旧松山藩主松平定謨伯爵が陸軍大演習のために行啓された摂政宮(のちの昭和天皇)の宿泊所として急遽、建築された。青い銅板葺きの尖った屋根とコリント様式の石柱、華麗な意匠のステンドグラスなどを持つ瀟洒な洋風の建物の設計者は木子七郎である。木子は京都の宮大工の流れを汲む由緒ある家に生まれた。東京帝国大学建築科を卒業後、建築事務所をひらき、萬翠荘のほか松山高等商業学校(現松山大学)校舎、愛媛県庁舎、石崎汽船本社など愛媛県下では初めての鉄筋コンクリートによる建物を松山に残している。番組は東京大学教授・藤森照信氏を招き、近代建築草創期に活躍した木子七郎の業績を紹介するとともに、近代化遺産としての建築物をクローズアップした。のちに「もうひとつの坂の上の雲」シリーズと名付けられる郷土史再発掘の番組は、年に1~2本のペースで前後6本が制作された。その第2回放送は『甦る秋山好古・真之兄弟』である。ゲストとして招いた三浦康之氏(JALカード副社長)は真之の戦略家としてのやわらかな発想は、藩政時代からの伝統的な教養の蓄積が基礎にあると語る。一方、好古は最晩年、私立北豫中学校校長に就任し、質素な独居生活を送ったことで知られる。在任中、北豫中学に県立移管の話が持ち上がったとき、日本の公立教育には生徒を型にはめようとする欠点があると指摘し、これからの私学はイギリスの伝統校イートン、ハーロウに学ぶべきであるとして県立移管を見送ることを説いたといわれる。西欧的な教養を見につけた秋山好古の教育者としての面目躍如たる逸話246第6章 経営改革の時代秋山 好古秋山 真之萬翠荘木子 七郎

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