南海放送50年史
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ナログ・デジタルいずれの放送方式になるのか、事業主体として地上波系列毎の参入が取沙汰されているが、それが地方局の新しい経営資源となりうるかどうかは未知数であると、不安をかくさなかった。そして、「常在戦場」の心構えで日常業務に当たるべきことを強調した。越後長岡牧野藩の家訓として広く知られた言葉である。民放4局の競合激化に加えて、衛星放送と結んだ都市型ケーブルテレビが急速に普及しはじめた。マルチメディア時代に対応できる新しい営業分野の開拓や収益構造についてシビアな見直しが不可避となった。1996(平成8)年10月20日、第41回衆議院議員選挙が行われた。小選挙区比例代表並立制による初の総選挙である。1993(平成5)年7月の総選挙では自民党が過半数割れとなり、社会党が惨敗、新生党、日本新党などが躍進した。いわゆる自社両党主導の55年体制の崩壊である。年が明けた1月28日には政治改革4法が成立したが、激しい政党再編成で政権交代が繰り返されたにもかかわらず、選挙で民意が問われることはなかった。この第41回総選挙においては、小選挙区の議席数が300となった。愛媛県は従来の3中選挙区・定員9名が、4小選挙区・定員4名に分割された。このため、中選挙区にみられた複数の政党から、または一つの政党から複数の当選者を出すことはできなくなった。愛媛2区の越智伊平、愛媛3区の西田司両氏は四国ブロック拘束名簿式比例代表選挙区に回ることになったが、愛媛1区からは塩崎恭久氏が参議院に鞍替えを余儀なくされた。また、愛媛1区では自民党の元郵政大臣関谷勝嗣氏に新進党の中村時広氏が挑み、わずか4,500票差の大接戦の末に関谷氏が議席を確保し、自民党が4議席を独占した。愛媛県内の投票率は、1993(平成5)年7月の総選挙より新選挙制度と報道227第1節 地方局、冬の時代へ

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