南海放送50年史
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索を行った結果、8遺体が船内から収容された。ただ一人、実習生水口峻志君の遺体だけが発見されなかった。初めての海外での事故取材は多くの教訓を残した。衛星中継による自社独自の映像素材の伝送は、NNNの協力でスムーズに行われたが、時差のなかで海外メディアをふくむ激烈な取材競争、補償交渉をめぐる日米間のへだたりなど、戸惑うことが少なくなかった。最後に残った2遺族が和解文書に調印したのは2003(平成15)年1月31日である。前年の暮れ、ワドル元艦長が来県して宇和島水産高校の慰霊碑に献花し、救出された26人の生徒や遺族に謝罪した。事故発生から2年近くが経過していた。この間、NNNドキュメント『海底に眠る友へ~えひめ丸実習生の2か月~』などテレビは特別番組7本、ラジオは特別番組『えひめ丸沈没~届かない怒りと悲しみ~』など5本が放送された。2001(平成13)年3月24日午後3時28分、激しい横揺れが東・中予地方を襲った。えひめ丸衝突沈没事故の発生と同じく、この日も土曜日だった。マグニチュードは6.7、安芸灘を震源とする芸予地震である。フィリピン海プレートの断層に流れ込んだ水分により南北20キロにわたって断層がずれたと判断された。今治市と周辺の越智郡島嶼部、松山市で震度5強を記録。北条市で死者1名、ほかに負傷者74名、住宅損壊5,336棟、道路損壊は16路線に及んだ。1946(昭和21)年12月の南海地震以来の大きな被害となった。地震発生直後の午後3時30分、テレビはNNN地震速報第一報をスーパーで伝えた。ラジオは生ワイド番組『みゆきのWeek-end C@fe』を放送中で、合田みゆきアナはただちに地震発生を伝えるとともに火災防止など「災害緊急コメント」を聴取者に繰り返し呼びかけた。芸予地震でラジオが大活躍221第3節 あいつぐ自然災害宇和島水産高校の慰霊碑に献花するワドル元艦長被害を受けた道後のホテル被害を受けた道後のホテル

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