南海放送50年史
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ゾン層の変化を観測している隊員から話を聞くことができた。1月6日、白川氏がパトリオット・ヒル基地に到着した。南海放送隊の3名は登山ガイド付きの小型機で白川氏が搭乗するツインオッター機とともに飛んだが、悪天候が続きベースキャンプ地に着陸できなかった。9日、白川・南海放送隊はベースキャンプ地に着陸、第2キャンプに入った。10日から12日までの3日間をかけて、第2キャンプから第3キャンプ(標高3,800m)を経て第4キャンプ(標高4,200m)に到達した。第4キャンプはビンソン・マシーフの山頂まで高度差30メートルだが、垂直に近い氷壁が行く手をはばんでいる。白川隊は慎重を期してここから第3キャンプに引き返すことになった。しかし、南海放送隊には13日にしか登頂の機会が残されていなかった。パトリオット・ヒル基地からプンタアレナスに帰る定期便が1月16日に飛び立つことになっていた。乗り遅れるとチャーター機が必要になる。山頂撮影のために、僅か1日の機会を逃したくなかった。白川氏に自分たちだけで登ってみたいと断り、高山病特有の頭痛と空腹に耐えながらアイゼンとピッケルを頼りに氷壁にかじりつき、8時間半かけて登攀に成功した。1992年1月13日午後10時30分、日本クルーとしてはビンソン・マシーフ5番目の登頂となったのである。202第5章 民放4局化時代ビンソン・マシーフ登頂に成功したスタッフ左から田中勝利、石川慶英、大塚進南極点に立つスタッフ

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