南海放送50年史
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171第4節 昭和から平成へ昭和という名の波乱に満ちた時代が静かに幕を閉じた。1989(昭和64)年1月7日土曜日の早暁5時12分、報道制作局のフロアにある共同通信社のスピーカーが「高木侍従長、自宅を出て皇居へ」と緊急事態の発生を告げた。X体制の特別泊まり勤務に入っていた冨田裕アナウンサーはただちに篠原修報道制作局長、山本昭夫局次長らに連絡をとる一方、5時36分、『大学受験講座』を放送中のラジオを中断して第一報を伝えた。テレビ業務部は前夜から徹夜の泊まり勤務を再開したばかりだった。日本テレビが5時41分30秒、「天皇陛下ご危篤」の報道速報番組をはじめたのをうけて、わが社は5時50分、放送開始時間をくりあげてネット番組にのった。系列局の中では4番目の早い立ち上がりになった。報道制作局は6時過ぎ、局長以下主な顔ぶれがそろった。昨年9月19日、天皇のご病気が発表されて以来、ご容態の経過に注意しながら放送、取材、中継、特番制作の班別編成を終えていたので、皆それぞれの持ち場で落ち着いて作業を行った。午前6時35分、テレビは「危篤放送」に入った。報道制作担当の土居常務が非常事態放送体制に入ることを宣言する。ラジオも午前6時の番組から放送予定を全面的に変更することを決定し、JRNの特別番組に切り替えた。午前7時55分、藤森昭一宮内庁長官から天皇陛下の崩御が発表された。テレビ・ラジオの放送は「天皇陛下崩御、新天皇即位」に入り、竹下首相謹話、侍医長謹話、午前10時には昭和が終わった日第4節昭和から平成へ

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