南海放送50年史
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ターに選び、テレビサブ機能をそこに移すことにした。多数配置した中継地点からのマイクロ波を受けるのに、城山局舎はうってつけの場所だったからである。スイッチャー、DVEなどの大量の機材がラジオカーや数台のトラックで登山道を運び上げられた。中継車4台、マイクロ受信点7か所、ヘリコプターほか合計14台のカメラによる映像・音声をここに集める。各中継点、スポーツコーダーその他多数のモニターテレビが調整卓の前にずらりと並んだ。難題が起きた。松前町出合橋から伊予市中心部にかけての上空は松山空港管制域にあり、ヘリコプターの飛行は禁止されていた。大阪航空局松山空港事務所と折衝した結果、天気のよい日にかぎるという条件付きで、特別に管制域での飛行が許可された。機材不足にも悩まされた。高知放送からはFPU2対向を借用した。また、スタート地点の中継車をゴール地点に、10キロ地点のカメラを急遽35キロ地点に移動させるなど、なんとかカメラ不足も解決した。中継要員は総数145名にも上ったが、社内のあらゆる部署からの応援を得て全社総力を挙げての放送体制となった。テレビ中継による技術面での収穫は少なくなかった。技術陣はヘリコプターからの電波を自動的に追尾できる可変指向性アンテナ、走行中のカメラの振動を緩和する吊り型雲台を独自に開発するなどして、テレビ中継の成功に大きく貢献した。愛媛マラソンのテレビ実況中継はその後、コースの変更があったが現在もつづき、2003年には第41回大会を数えた。交通情報を織り込んだラジオ実況中継も復活した。第36回大会ではのちに日本代表のオリンピックマラソンランナーに急成長する松山大学時代の土佐礼子選手が走った。167第3節 技術の挑戦愛媛マラソン マイクロ波追尾アンテナ臨時放送センターのスタッフヘリコプターで電波を中継

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