南海放送50年史
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りをひらき一般にも園内を開放してきたが、創立30周年を機会に本格的な文化事業施設として整備し、放送・本町会館・サンパークの三本柱による経営基盤強化の方針が決定された。設計・施工は清水建設に発注された。サンホールは1,006平方メートル、1,800人収容の広さを持ち、室内スポーツ、コンサート、美術展、展示会など幅広く利用される。数寄屋別館は伝統的な建築様式をふまえた茶室、立礼式茶室とともに36畳の広間を持ち、学苑行事、展示会などいろいろに利用された。エントランスホール階上のカトレヤホールからは芝生のひろばを中心に庭園が一望できる。施設運営は本社組織機構にサンパーク事業局が新設され、その下に営業部、業務部の二部が置かれた。営業部はコンベンション、展示会、自主催事としてのお花見企画など懸命な活動を展開したが、施設が市内の中心部から離れていることもあって、営業目標の達成は厳しかった。初代営業部長をつとめた平岡英は空港通りの事業所を戸別に訪問して新製品の展示会利用などを提案した。冬期の営業には特に苦労したという。テレビディレクター時代の縁から吉本興業の木村政雄氏の協力で仁鶴、オール阪神・巨人などの人気タレントによる「年忘れパーティin サンパーク」をセールスしたこともある。サンホールを利用して「レディス卓球大会」、「バドミントン大会」が生まれ、のちに放送営業に引き継がれた。放送営業のような広告代理店機能があるわけではない。自らの足で歩き、仕事を広げた。業務部は学苑講座、経理などを担当した。数寄屋別館での茶道、華道などの教養講座、茶陶展などが収入源となったが、収支バランスは厳しく人件費段階で赤字になった。松山まつり前夜祭としてサンパークを主会場に開催された「サンパーク花火大会」は重信川河川敷に15万人の観衆が集まる名物行事となったが、毎回の運営経費は協賛広告収入をはるかに上まわりながら、その収支が厳密に検討されることはタブー視された。サンパークにはその後も施設整備が続けら140第3章 総合文化産業への出発

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