南海放送50年史
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しての姿勢を示しスタートした。1970(昭和45)年、大阪万国博覧会の年の10月3日、瀬戸内ブロックを対象にした共同制作番組『ワイドサタデー』(土曜日・15時~15時56分)が始まった。朝日放送、山陽放送、中国放送、RKB毎日放送、大分放送にわが社が加わった6局の共同制作である。従来のようにキー局が番組の構成をうけもち、各局が部分的に参加する方式ではなく、企画当初から各局が番組制作にかみ込んだ。とりまとめる朝日放送も、中継技術のコントロールセンター的役割を担う場合が多く、各局のディレクターの演出が尊重され、その腕が試される仕組みになっていた。また、屋外からの生中継というコンセプトに特徴があった。制作参加の回数は各社の社内体制の制約もあり、スタート時は、RKB毎日放送と山陽放送が月2回、中国放送とわが社が月1回、大分放送は随時録画で参加、朝日放送は毎週スタジオと中継1回となっていた。番組の司会には佐々木信也と、末広真樹子が起用された。わが社の最初の制作参加は10月17日の「瀬戸内魚だより」で、今治市糸山展望台から中継した。海岸にも中継地点を設けたが潮の干満を計算していなかったため、中継地点の砂浜が海中に没し慌てる一幕もあった。これまでわが社は、松山周辺以外のところからの中継経験が少なかったが、この番組がきっかけとなり、マイクロルートの開発が行われた。生中継演出の研鑽の場ともなり、事件・事故のニュース中継にも役立った。その後、6社に加え、四国放送、宮崎放送が参加し、西日本広域ブロックネットワークを形成した。1975(昭和50)年のいわゆる“腸ねん転解消”でネット系列が変更となり、山陽放送から瀬戸内海放送へ、中国放送から広島ホームテレビへ、RKB毎日放送から九州朝日放送へと制『ワイドサタデー』制作参加88第2章 大いなる飛躍へ『ワイドサタデー』の中継

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